雪夜庵閑話

俗世を離れ、隠遁生活を始めた団塊世代です

思い出の日産車(1)

 日産の業績が沈んでいる。 カルロス・ゴーンが社内の抗争により権力の座を追われ、追い落とした方も渦に巻き込まれ、昔の陰謀渦巻いていた頃の日産に戻ったかのような時代劇を演じたあげく、今回のコロナ禍で坂を転がり落ちるような凋落ぶりである。

 もっとも他社が次々に新型車を出す中で、日産は何年も旧型車のマイナーチェンジでお茶を濁し、ゴーン流の錬金術で凌いできたようなものであるからして、なるべくしてなったというものであろう。

   今、世界中で自動車メーカーの統合が進んでいる。規模の利益が物を言う自動車の世界では日産も統合の目玉になっていくような気がする。

 しかしながら、私が免許を取って車に目覚めたころの日産は「技術の日産」としてまさに高度成長期の日本の象徴であった。 トヨタがその頃から既に大衆におもねった路線で、少しでも豪華に見える車作りに走っていたのに比べ、日産は車好きを引きつける魅力ある車を世に送っていた。

 これから何回か、私の思い出に残る日産車について不定期に書いてみたい。

我が最初の車との出会い-教習所にて <セドリック・グロリア>

 高校2年の16歳でいわゆる原付二種のバイク免許を取り、一日も早く本物の自動車を運転したいと、大学1年(1966年)の夏休みになるのを待ちかねるように帰郷して自動車学校に入学した。 暑い夏で街にはマイク真木の「バラが咲いた」が流れていた。

 当時の自動車学校は先生が威張っていて、授業料を払っていながら嫌な思いをさせられたという人が多かったようだが、私の場合は、先生よりも教習車に泣かされた。 何しろ当時は車一台一台のクセ(というか製品のバラツキ)が大きく、さらにはどう見てもポンコツという車も混じっていて、ひどい車に当たると、ギヤは入らないわ、ブレーキはカックンとなるわ、エンストはするわで、実技試験でおかしな車に当たったが運の尽きという笑うに笑えない悲劇に見舞われることが普通にあったのである。

 問題の教習車として使われていたのが日産のセドリックとグロリアで、これが私の自分で運転する車との最初の出会いとなった。

セドリック(初代:1960-1965)

 日産がトヨタのクラウンに対抗して自社開発した初の中型セダンで、当初は縦目の4灯であったが、私が乗った車はマイナーチェンジ後の横目4灯、前席はベンチシートでコラムシフトであった。 データを見ると横目へのマイナーチェンジは1962年のことであるので、私が乗った車は既に何年も使われて老朽化していたことになる。

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日産セドリック(初代1962) 

 グロリア(2代目:1962-1967)

 セドリックとともに教習車に使われていたのが、この旧プリンス自動車工業製のグロリア。 ちょうど私が自動車学校に通っていた1966年8月にプリンス自動車は日産に吸収され、以後日産グロリアとして同クラスのセドリックと併売された。

 この車は凡庸なデザインのセドリックとは対照的に、アメリカ車風な派手なデザインで異色な車であった。 今でも中古車市場ではマニアに人気でポンコツが何百万円もする。 教習車はセドリックと同じコラムシフトだったが、なぜかシフトパターンが異なっていて生徒は訳が分からなくなるのであった。

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プリンス・グロリア(2代目)

 幸い私は試験でおかしな車に当たることもなく、無事夏休み中に免許取得できた。

 それ以来54年間、自動車は私の生活になくてはならない同伴者となって今日に至っている。 自分で車を運転して、気の向いたときに、どこでも好きなところに行けるという贅沢、これはまさに昔の王侯貴族でも叶わなかった現代人の特権である。