雪夜庵閑話

俗世を離れ、隠遁生活を始めた団塊世代です

高松宮日記

 先回、「昭和天皇巡幸」の記事で、米軍将校であったオーティス・ケーリによる高松宮への働きかけが巡幸のひとつの要因になったのではないかと書いたが、ケーリからの働きかけを高松宮側ではどのように受け取り、また天皇、側近への影響はどうだったのかということについて調べたくなり、図書館から「高松宮日記 第8巻(昭和20年~22年)」を借りてきて、ケーリのドナルド・キーン宛の手紙と照合してみた。

ドナルド・キーン著作集第5巻「日本人の戦争」は大枚をはたいて買ったのに、所在不明で、致し方なくこれも図書館から借りて来た

高松宮宣仁親王(1905-1987) 大正天皇の第三皇子

 結論から言えば、「高松宮日記」側の記述は誠にそっけなく、面会時間、面会相手の名前程度で、話の内容や感想などはほとんど書かれていない。 ケーリの手紙によれば、最初に式場隆三郎の案内で高松宮邸を訪問した1945年(昭和20年)12月16日と、次回の12月20日の2回の面談の中で、高松宮に対し昭和天皇が戦後日本の改革のためにいますぐやるべきことを具体的に提案し、高松宮も「もっと具体的に、今、天皇に何ができるでしょうか?」と身を乗り出して来たと書いているが、高松宮日記では、

(昭和20年)十二月十六日(日)晴

一六〇〇(16時)式場氏、OtisCary同伴(二十四才、哲学学生、海軍大尉トシテ捕虜関係ニ従事。祖父同志社教授、父北海道宣教師、本人小樽生レ、十四才マデ同地ニアリ)

十二月二十日(木)晴

式場氏、ケリー同伴、先日ノ補遺

 としか書いていない。しかし、翌日には、

十二月二十一日(金)晴

昼食シテ情報会ヘ。賀川豊彦氏ノ組合運動ニ関スル話。アト陛下ニ拝謁ヲ願ヒ、米人ノアセリニ対シ手ヲウツベキ件申上グ。

 とあり、天皇に対しケーリの主張を伝えたことが伺える。

 1946年(昭和21年)に入ると、元旦の天皇による年頭の詔書(いわゆる人間宣言)において、みずから神格を否定し、また新聞に天皇のインタビューや家庭写真さらに高松宮による「御兄君天皇陛下」と題された談話が次々に掲載され、ケーリは「この新聞記事には、ぼくらとプリンス・タカマツが語り合った多くの点が含まれていた」と、具体的な改革進展が動き出したことを喜んでいる。 そして次に高松宮邸を訪問した1月4日に、ケーリは高松宮に対し、

 「とにかく、天皇のインタビュー、天皇一家の写真、プリンス・タカマツの談話、それに元旦の詔書は、少なくとも最初の第一歩ですね。」と僕が言うと、「あなたのおかげですよ」とプリンス・タカマツは応えた

と記している。

 

 米軍将校オーティス・ケーリに対する私の関心はますます高まって来た。次はケーリの著作を古本屋で漁って読んでみることにしよう。