雪夜庵閑話

俗世を離れ、隠遁生活を始めた団塊世代です

オーティス・ケーリ「ジープ奥の細道」

 インターネットの時代になって一番恩恵を受けているのは、古書探しではないだろうか? 昔は、探し物が図書館になければもうお手上げ。 日本全国に何件あるかわからぬ古書店を訪ねるわけにもいかず、諦めるしかなかった。

 今回、オーティス・ケーリの書いたものが読みたくて、「日本の古本屋」というサイトで検索し、発注したら2日後にはもう届いたのにいたく感激。

 買った本は次の2冊。(他にもいろいろ出てきたが、読みやすそうなのにした次第)

ジー奥の細道」(1953年 法政大学出版局

「日本との対話 私の比較文化論」(1968年 講談社

 早速、面白そうな「ジー奥の細道」から読み始めた。 ケーリ氏は終戦直後に進駐軍の一員として日本に派遣され、この時期に高松宮との接触があったわけであるが、半年後に除隊となると帰米して母校のアーモスト大学に戻るも、すぐに大学から関係の深い同志社大学へ教授として派遣され、日本に舞い戻ることになった。 この本は1949年の夏に京都からケーリ氏の生まれ故郷である北海道は小樽まで家族3人ぼろジープを駆って旅した珍道中の記録である。

  この本自体が1953年(昭和28年)の発行で、当時を偲ばせる。 用紙には「ざら紙」と昔いわれていたザラザラしたわら紙が使われていて、定価は230円也。(古書店から1,750円で購入)

同書見返しから 京都~北海道往復の旅

 地名表示が宿泊した場所である。これを見ると一日の走行距離が長く、当時の道路事情を考えるととてつもない強行軍だったことがわかる。

カンカン照りのジープ旅行 写真はすべて同書から

 1949年といえば終戦後間もない昭和24年、当方が生まれた翌年である。 まだ戦争の傷跡の残る当時の日本がどんな状況であったか、特に地方の道路がどんな整備状況であったか、察するに余りあるものがある。 加えて生後半年の赤ん坊を連れて盛夏に屋根のない(もちろんエアコンなどない)ジープで旅するというのだから驚くばかり。

 道中一番悩まされたのは「パンク」であった。第一日目からパンクの洗礼に会い、田舎では村人に車を持ち上げるのを手伝ってもらったり、パンク修理屋を探したりで、日本人との交流の機会にもなったようである。

 一例として長野県飯山市におけるパンク修理の情景

 ”パンク屋”は、狭い田舎町のことだから、たちどころに見つかった。とはいうものの、いかにも小さく、古ぼけていて、虚心に飛びついて行ける代物ではなかった。

 店の構えは、自転車屋にも劣るかと見えた。道具も、あまり回っていないことが、ひと目でわかった。案の定、自転車専門で自動車のタイヤはお門違いだという。でも、やってみましょうということになった。(中略)

 もうその頃には、チューブ屋の前は、昨今のテレヴィがあるラジオ屋の前みたいな人だかりだった。子供ばかりでなく、おかみさんや爺さん連まで集まって来ていた。

 そもそも、当時の日本は遠距離の旅行といえばもっぱら「汽車」であり、自動車旅行などはまったく考えられなかったのである。 したがって、次のような感想が書かれる。

 日本人の通路に対する無関心、むしろ無知には、しばしば驚かされる。どこへ行くには、どの方向へどのくらいで行かれるかを、まるで知らない。自分が住んでいる、僅かな土地内のことしか知らないのだ。この点、むしろ専門家である筈の警官さえ、一般人とほとんど変わりない。私が進駐軍の一人として、戦後初めて日本に来て、あちこちジープで駆けまわったとき、痛烈に教えられたことはこうだ。日本人に道を聞くときは、次の町、せいぜいそのつぎの町までの方角、距離しか聞くな。東京、名古屋といった大都会への道を注文してもムダだし、危険なことすらある、ということだった。

 飯山から次の宿泊地の新潟市への道中、ジープは我が長岡市も通過している。

 山村の、夕闇迫る軒下をくぐり抜け、見はるかす信濃川の流れに沿って、一気に長岡まで下った。この間、二時間ちょっと。もう夜の八時半だった。

 長岡の町は暗かった。夜目にも焼け跡が生々しく、戦火の痛手が容易に感じとれた。安バラックが平たく建ち並んでいるだけで、まともな立ち上がりは、まだまだ見られなかった。

 長岡の町を出はずれたところで、車を点検した。こうした車の旅では、規則的に、タイヤの熱さを見、固さを確かめる習慣がつく。それはいいんだが、またもやパンクだった

 我が家も焼け跡の安バラックの一軒であり、その屋根の下で赤ん坊の私は寝ていたのかと思うと、感慨深い。 パンクの方は、夜の十時過ぎにも関わらず、道端で涼んでいた若い衆が突っかけ下駄で寄って来て、困っていると知ると、張り切って手際よく治してくれ、五十円しか取れないと言うのを、ラッキー(煙草)一個を五十円につけてお礼をしたと言う。 さすが長岡人。

 この旅行の目的は、ケーリ氏の生まれ育った小樽の街を訪ねることであった。 ケーリ氏の両親はアメリカ人で、父親はキリスト教の宣教師として永年小樽を拠点に北海道で活動していたのである。

 かつての、住みなれた我が家へジープを乗り入れた。門から玄関先の石段まで、ジープがやっと通れるくらいだった。昔どおり桜の木が立ち並んでいた。(中略)ジープの音を聞きつけたのだろう、上泉のおばさんが玄関から飛び出して来た。上泉さんとその息子さんには、終戦後、東京で会ったが、おばさんにはまだ会っていなかった。少年の私が十三年の歳月を隔てて現れたのだから、驚いたに違いない。すぐには昔と今を結びつけることができなかったろう。 「ケーリさんですか」 おばさんは目をみはってそういった。その眼には涙がいっぱい浮かんでいた。

 ケーリ氏はその後1か月の旅を終えて京都に帰り着くと、苦楽を共にしたおんぼろジープに「ケイトねえちゃん」という名前をつけて労をねぎらった。

 後年、ケーリ教授は同志社大学自動車部の部長を務めておられたという。