雪夜庵閑話

俗世を離れ、隠遁生活を始めた団塊世代です

寒い家

 昨年末来の長引いた風邪(?)もようやく去り、しつこい副鼻腔炎だけが居座っている。 今までこんなにいつまでも身体がすっきりしないことはなかったのだが、後期高齢者とはこういうものかと自分で納得している。

 身体の具合の悪い冬には古い我家の寒さがひとしお身に染みる。何しろ父の代に建てた古い建物は終戦直後、新し建物でも昭和48年築であるから、耐震はもちろん、断熱も考えていない。 普段いる部屋の中はガス暖房やエアコンでやり無理暖房しているが(それでも隙間だらけだから室温は20度ちょっとしか上がらない)、一歩廊下に出れば外と同じ寒さである。この冬は我慢ができず首にネックウオーマーを巻き、セーターの上に綿入半纏を羽織って着ぶくれのいで立ちである。 大昔はどこの家でも夜寝る時には隙間風よけに枕屏風を立て、それもない家では頭に頬かぶりをしていたものだという話を聞いたことがあるが、似たようなものだ。

 そもそも兼好法師の昔から、日本の家は「夏を旨とすべし」とされ、冬の防寒よりも夏の涼しさを最優先してきた訳で、多分、その思想は日本の南北を問わず、冷暖房器具の発達する昭和40年代頃までは生きていたのではなかろうか?

 ちょうど今読んでいる司馬遼太郎の「街道をゆく」の中に、北海道の旅館の夜の寒さに閉口して、

 この宿はこの当時、湯川でも代表的な老舗で、軽快な京風の数寄屋建築が自慢だった。数寄屋というのは高温多湿の夏をしのぐためのもので、冬向きの建築ではない。和人が「ワタリ」として多数道南に移住するようになった鎌倉・室町以来、一度も北方の冬をしのげるような建物や装置を考え出したことがなく、本土の南方建築で間に合わせてきたというのは、驚嘆すべき文化といっていい。(中略)

 かつての奥羽の人々や道南の和人たちが、北方のオンドルをなぜとり入れなかったか、ふしぎでならない。(中略)オンドルの床ができると、家屋の構造が変わらざるをえない。外壁も、奥羽にごく最近まで圧倒的に多かった板壁でなく中国・朝鮮式の塗り壁にしなければならず、この点、京を中心に発達した建築様式とはずいぶん違ったものになってしまう。 それでは他の日本と区別されてしまう、という意識が、この式を採用することをはばんだのではないか。 ー奥羽や道南では、日本の他の文化と、家屋そのものからして違っている。というふうには見られたくないという意識ー逆に言えば中央と均一化したがる意識ーがこれをはばんできたのではないか。日本には、本格的な意味で独自な地方文化が育ったためしがないということは、この一事でもわかるような気がする。(以下略) (街道をゆく15 「北海道の諸道」)

 確かに、どんな北国に行っても、和風の立派な建物は京都の名建築に倣った、書院造や数寄屋造であることがほとんどで、庭も建物に合わせて作り、豪雪に耐えるために大変な手間をかけて冬囲いをしても、この様式を守っているのは涙ぐましくさえ思う。

 しかしながら北国の人間は、私を含め、冬の間は家の寒さに閉口しながらも、雪が解け、庭の梅や桜が咲き出し、春風が座敷を通り抜けていく頃になると、すっかり冬の寒かった日々を忘れ去ってしまうのである。

冬の楽しみ 隙間風の入る部屋で餅を焼く