雪夜庵閑話

俗世を離れ、隠遁生活を始めた団塊世代です

伊藤助右衛門邸を訪ねる

 先日、念願かなって糸魚川の伊藤助右衛門邸を訪ねることができた。

 ここを訪れたいと思ったきっかけは、以前読んだバーナード・リーチの「日本旅日記」(講談社学術文庫 2002)の中に、1953年(昭和28年)10月、リーチが柳宗悦濱田庄司等と東北から日本海沿いに南下する旅の途中、かねてから昵懇の間柄で何度も逗留したことのある伊藤家を訪れた時の次のような記述に惹かれたことによる。

 十月十四日

 北西海岸を列車で百五十マイル下り、海辺の能生という小村へ行き、伊藤助右衛門氏方で二泊。同氏とは四十年前に初めて会い、それ以来氏は私と濱田の作品を集めていた。しかし彼は富本(憲吉)作品の主要蒐集家で、最良の焼物や絵画を二百点以上所有しているはずだ。これらの作品は、彼の立派な大邸宅の至るところに配置されているが、私たちはそれを眺めたり、話したり、素晴らしい食事をいただいたりして、時を過ごした。この人の洗練された接待のセンスは並外れている。私たちが来るというので障子紙は全部張替え、蒲団綿も打直し、私の身丈に合わせた絹の綿入まで作り、帰りがけにはそれを私にみやげとして下さった。富本の旧作を顧みて、その意義についてますます私たちの信念は強まった。(以下略) (「日本旅日記」第7章 獲入れの秋の本州をめぐる)

伊藤家における、左から柳宗悦濱田庄司バーナード・リーチ、伊藤助右衛門(雄吉)

写真は現当主 伊藤克助氏提供

 伊藤家は、旧能生町(現糸魚川市)鬼舞という日本海に面した漁村に在し、江戸時代から明治にかけては北前船の廻船問屋として財を成し、鉄道の時代になり海運が衰えると、大地主として農業、林業の振興に努めてきた。

 リーチらと親交のあった伊藤助右衛門(雄吉)(1886ー1967)は、慶応を中退して1913年(大正2年)に家を継ぎ、科学的農業技術の研究と実践に没頭する傍ら、文学・美術を愛好し、全く無名であった富本憲吉との出会いと支援を通じてリーチや柳、濱田、河井寛次郎らとの交流が始まった。

伊藤家の玄関

 今回、糸魚川市教育委員会を通して訪問がかない、現当主の伊藤克助氏から邸内の案内を受けることができた。伊藤邸の建築は1891年(明治24年)頃で、以来大きな改築もなくほとんど当初のまま現在にその姿を伝えている。外観は、このあたりの古い民家と同様、黒く古寂びて、冬の日本海から吹き付ける風雪に耐えてきたことを偲ばせる。 しかし一歩玄関から中に足を踏み入れると、採光のよい広々とした土間が奥まで続き、土間に面した「ミセ」も県内の農村建築に多い鬱陶しい色使いや薄暗さがなく開放的で、黒ずんだ外観からは想像できない内部空間が迎えてくれる。

広々として明るい土間とミセの間

李朝やリーチの陶器などが飾られたミセの床の間

昔のままに李朝の卓と籐椅子が置かれたミセの並びの間

 克助氏によれば、この建物を建てた四代目助右衛門(祐三郎)氏は禅宗に帰依し、その影響が建物にも見られると言う。すなわち外観に見られるように全体的に華美なところがなく、奥の上座敷にしてもすっきりとした書院風で欄間や障子戸も簡素で、銘木を使って人を驚かせるような趣味とは無縁である。

奥座敷のすっきりした意匠

 思えばリーチらと交流した五代目助右衛門(雄吉)氏の芸術への志向もこの建物に表された簡素で派手さを嫌うものに共通し、それがまたリーチらの考え方と共鳴したものと思われる。

 

 伊藤助右衛門邸は2018年に国の重要文化財に指定されたが、補助金などは微々たるもので、建物の維持管理には頭を痛めておられるようであった。個人がこのような文化財の価値をそのままに後世に伝えていくことに対して、その重要性を認識し、公の補助も含めた最適解を社会で考える必要があるものと思われる。

 

 ここまで書いたところで、伊藤克助氏から今年の7月に奈良県立美術館で開催された「富本憲吉展のこれまでとこれから」という企画展の図録が送られてきた。 伊藤家所蔵の作品もかなりの数が出展されていて、中でもNo.10の白磁壺は名品である。

      開館50周年記念企画展「富本憲吉展のこれまでとこれから」図録            (奈良県立美術館 2023)より

 この作品には次のようなエピソードがある。

 大正八年の秋、突然富本は、こんなものを焼くことができるようになったと、見事な壺を持って鬼舞を訪ねた。待望の白磁が成功したのである。その出来ばえのよさを、手を取り合って喜んだ。富本は助右衛門の切望により、それを伊藤家に置くことにし、奈良へ帰っていった。 富本が一流の陶芸家として名を上げられるようになったのは、陰に助右衛門があったからだと言っても言い過ぎではないほどの助力ぶりであった。 そんな事情で、富本の初期の作品は多く伊藤家にあり、昭和三十九年六月に東京新宿の伊勢丹で富本憲吉遺作陶芸展が開かれたときに、濱田庄司バーナード・リーチが伊藤家に来て選び出したものを出品したが、伊藤家からのものが最も多かった。このことからしても、いかに富本に打ち込み、惜しみなく力を貸していたかがわかる。 新潟県人物百年史 続頚城編「伊藤助右衛門」より 東京法令出版1968)

新潟県人物百年史 続頚城編「伊藤助右衛門」より 写真の籐椅子がそのままにある

 克助氏は、陶器などの収集品は結局この家のたたずまいに合う物だけが残ったと言われたが、まさに華美を排除した簡素な中での美しさが、建物とこの白磁との共通点だと思われる。伊藤助右衛門邸はその所蔵品と共に歴代当主の審美眼によって守られてきた作品といえるのではないだろうか。