雪夜庵閑話

俗世を離れ、隠遁生活を始めた団塊世代です

女谷の武田家

 柏崎から十日町に向かう街道を進み、女谷(おなだに)という集落から右に折れて、里山に囲まれた田園の中に武田家という旧家がある。 建物は200年以上前の江戸後期に建てられた農家の造りで、一部を除き昔のままの姿を残している。

 先日、秋晴れの午後に武田家を訪ね、現当主の武田百合子氏の案内で邸内を見学することができた。

武田家の正面入口 既に雪囲いがされている

建物平面図 柏崎市歴史的建造物調査(2018 平山・西澤・梅嶋)より

 玄関を入って正面から右は土間と厩であったといい、今は物置として使っている。 左手は広い板敷きの間で囲炉裏があり、吹き抜けで黒く煤けた梁とおそろしく太いケヤキの柱が豪雪に耐えてきた歴史を感じさせる。

囲炉裏のある吹き抜けの天井を支える横組み

同じ囲炉裏の間の太いケヤキ

 囲炉裏のある板敷からさらに左手が来客用の座敷と大きな神棚(というより神殿)を備える奥座敷が並ぶ。 ご当主の話では、この神棚の場所は元は仏壇があったが、明治の廃仏毀釈の時代に神様(富士山の浅間神社)に取って代わられたといい、先祖が富士登山をした時の杖が何本も中に立てかけてある。 ただし、仏壇は廃棄されたわけではなく、小座敷に移されて今も毎日神様と共にお参りがされているという。

座敷と奥の間の神殿(右側)

 この建物は、地元の名棟梁で番神堂や東本願寺などの寺社建築に関わった篠田宗吉(1826ー1903)が手掛けたといわれているが、2018年に調査した平山氏らによれば、宗吉が手掛けたのは明治期の増築部分ではないかとしている。

 住宅は土蔵と共に2018年に国の登録有形文化財に指定されている。

 ご当主のお話では、先祖は村長も務めた家柄であり、昔は田畑も多く所有していたが、跡継ぎの戦死や戦後の農地解放で大変な苦労をしてきた。 山や敷地の大木などは、戦時中に供木といってみんな供出させられたものだ。 また、こんな一見平和な農村にあっても、明治期から戦後にかけては人心が不穏で故なく襲われる事件も多く発生したのだという。

 訪問した日は明るい秋の午後の日差しが座敷に満ちていたが、これから冬を迎えれば、開口部に囲い板をはめて薄暗い室内でじっと春の到来を待つのであろう。

 帰り際には、百合子氏が作ったというお米と、近所に移住してきた人の作ったという「鵜川の里」という蕎麦を沢山お土産にもらって恐縮の至りであった。

武田家からの里山の眺め