雪夜庵閑話

俗世を離れ、隠遁生活を始めた団塊世代です

「ベルギーと日本」展と料亭「若松」のこと

 先日、秋晴れの午後、新潟県立近代美術館(長岡)で開催中の「ベルギーと日本」展に行って来た。 明治期に美大卒業後、ベルギーに留学した洋画家の太田喜二郎と児島虎次郎、彫刻家の武石弘三郎を軸として、その当時活動した日本、ベルギーの芸術家の作品を集めた展示会である。

 3人とも初めて接する名前であったが、洋画家の二人はいずれも明るい木漏れ日の光を感じさせる画風が印象的であった。 新潟県出身の彫刻家・武石弘三郎は繊細な人物像が並ぶ中に、「裸婦浮彫」と題されたレリーフがあり、何気なくその説明を読んだ時、一瞬にして半世紀近く昔の思い出が蘇ってきた。

武石弘三郎「裸婦浮彫」 1939(昭和14)年 新潟県美HPより

 説明文は、次のような趣旨のことが書かれてあった。 

三条市にあった「若松」という料亭の応接室の暖炉の上に絵画のように飾られていた作品である。この料亭の若主人の結婚を記念して製作されたものと思われる。

 懐かしかった。「この料亭の若主人」石村喜一郎氏とは私が若かりし頃に仕事上の付き合いで3日に1度は顔を合わせており、石村氏の茶飲み話を聞きながら世間勉強をしていたものであった。 すでにその頃、石村氏はいいお歳であったが、温厚な坊ちゃん育ちで写真が趣味であったことから、料亭とは別の場所で立派な洋風の写真館を持っておられた。 若松にも何回か職場の連中と上がって、庭を望む閑静な座敷で場違いな宴会を開いたこともあり、その折にこの洋間の応接室も見せてもらった記憶がある。 レリーフのことは記憶に残っていないが、竹中工務店の施工によるという薄暗いクラシックな応接室は、和風の料亭の中でここだけ異次元の世界に入ったような気がした。

取り壊される前の料亭「若松」 2014年6月撮影

 武石弘三郎を介して、若松の思い出が蘇ったのを契機に、若松の建物について調べてみた。 

三条市中心市街地の町と町家の調査研究 その8 旧料亭若松について」(2011 平山、西澤)によれば、若松の主屋は1930(昭和5)年頃に建築された。 その後、別棟(上の写真に見える道路に面した部分)が増築され、洋室(応接室)は、1939(昭和14)年頃、竹中工務店により改築された。 さらに戦後に大広間などが増築されている。

若松建物1階平面図(三条市中心市街地の町と町家の調査研究から)

 我々が訳もわからずに飲んでいたのは、「1階12畳」という庭に向けて縁側を回らせた部屋で、その隣に件の「応接室」があったのである。なおこの部屋は、廊下の板戸を閉めると、そこに部屋があることがわからない仕組みの「隠し部屋」で、政治家の密談に使われたという。

 ご多分に漏れず、料亭政治や花柳界の衰退により、若松も石村喜一郎氏の代をもって廃業し、その後長い間建物は風雪にさらされながらも名残をとどめていたが、少しずつ取り壊され、今年に入って通りかかった時にはすべて跡形もなく、更地となっていた。

 武石弘三郎のレリーフ「裸婦浮彫」は、平成24年度に新潟県立近代美術館に所有者から寄贈されたものという。 (「新収蔵作品 武石弘三郎「裸婦浮彫」、北村四海「女性立像」について」 新潟県近代美術館学芸員 伊澤朋美 2014) 

 石村夫妻の結婚を祝して武石によって作成された裸体の女性が微笑むレリーフが、若松なき今、華やかだった時代を偲ばせる「よすが」として私の前に現れたことは、50年前の石村氏の面影と共に、自分のまだ若く未熟だった時代を思い出させてくれたのである。