雪夜庵閑話

俗世を離れ、隠遁生活を始めた団塊世代です

昭和天皇巡幸

 前回の飯塚邸の記事で、1947年(昭和22年)10月10日に昭和天皇が越後路の巡幸の宿として飯塚邸に二泊したと書いたが、戦後の昭和天皇の全国巡幸は、1946年(昭和21年)2月の神奈川県を皮切りに、1954年(昭和29年)の北海道まで足かけ8年半にわたり行われている。 ちなみに1947年に新潟県を回られた時の日程を調べると、

 10月7日 皇居を出発 軽井沢の近藤友右衛門の別荘(戦後の皇太后疎開先)宿泊

   8日 長野を経て新潟県に入り、直江津、長岡、新津、新潟を巡幸 新潟県知事   

      公舎に宿泊

          9日  新潟、新津、村上、神納村、加治村、新発田を巡幸 県知事公舎に宿泊

   10日 坂井輪村、巻、燕、三条、長岡、柏崎、高田村を巡幸 飯塚邸に宿泊

   11日 休息日 飯塚邸の周辺を散策(村娘と会話) 飯塚邸に宿泊

   12日 直江津、高田を巡幸 長野県に入り長野等を巡幸 善光寺大勧進に宿泊

13~15日 長野県内、山梨県内を巡幸し皇居に帰還 

    (前坂俊之編「写真集 昭和天皇巡幸」河出書房新社 2013年 を参照)

 なかなかの強行軍である。終戦後の鉄道や道路事情も悪い中での田舎廻りである。

 なお、長岡における巡幸の様子は、「長岡市史」(1996年)によれば、

 甲信越地方を巡幸の昭和天皇が、十月十日午前八時に新潟の知事公舎を出発し、午後一時三九分長岡駅に到着した。市民はもとより近隣町村からの歓迎の人たちで、長岡駅前や大手通りは人の波で埋まった。昭和天皇は、北越製紙の本社に設けた展望台に立ち、松田市長の説明を聞きながら市内の復興状況を視察した。(中略)視察を終えた昭和天皇は公会堂前から徒歩で駅に向かい、戦災地長岡の中心街の復興ぶりを見た。その際、沿道を埋めた市民を激励、慰問し、午後三時十分、長岡駅発の列車で次の巡幸地の柏崎市へ向かった。

長岡市大手通の巡幸車列 後方が長岡駅 
鉄筋の建物は1945年8月1日の空襲の焼け残り 木造家屋は空襲後の急ごしらえ

 子どもの頃のおぼろな記憶に、大手通にあった焼け残りの北越製紙ビルの屋上に物干し台のようなものがあり、あれに天皇が立って長岡の街の様子を視察したのだと聞かされていた。  

 

 1946年(昭和21年)1月1日の昭和天皇によるいわゆる「人間宣言」で、天皇は自ら神格性を否定し、国民と何ら変わらない人間であることを声明した。この年の2月から始まる全国巡幸は、国民に近く接することによって人間天皇を感じさせ、国民の天皇観から神話的要素を払しょくさせる目的があったとされている。 また、その背後にはGHQの 思惑もあった。

 ところで、この昭和天皇の国民に対する啓蒙活動に関して関連がありそうなのが、オーティス・ケーリ(1921-2006)による高松宮への働きかけである。ケーリはドナルド・キーンらと米国海軍日本語学校の同級で、ハワイ日本人捕虜収容所長を務め、終戦直後に来日し、日本人捕虜の家族に捕虜からの手紙を届ける活動の傍ら、高松宮を通じて皇室改革の必要性を説いた。 この頃のケーリとキーンとの手紙のやり取りは、「昨日の戦地から 米軍日本語将校が見た終戦直後のアジア」という題名でドナルド・キーン著作集第5巻「日本人の戦争」(2012年 新潮社)に収録されている。

 以下、「東京のO・ケーリからホノルルのD・キーンへ 1945年12月21日」の手紙から

 先週、僕とシキバ博士(式場隆三郎精神科医)は、プリンス・タカマツに二度ばかり会いに出かけた。彼は天皇家の三男だ。(中略) 君は天皇に対するぼくの見解を知っているね。ぼくは、天皇の過去の在り方も現在の在り方も気に入らない。日本の天皇制は、今までと完全に異なる土台の上に組み立てなければ許されるべきものではないし、そうでなければ廃止してよいとさえ思う。 実は、占領軍が日本に上陸したら、命令や指令やらが矛盾して、大きな混乱が生じると思っていた。そうなって天皇というものが意味をもたなくなれば、その時点で退位するのが最善だと期待していた。ところが天皇は、あの特異な地位を通して、降伏後も、社会の秩序をよく維持しているのだ。これはわれわれが天皇を巧みに扱ったことによるが、それもこれほどまでできるとは思わなかったし、この調子なら、このままいつまでもうまくいくのではないかと思えるほどだ。占領政策の機能という観点からすれば、これは両国にとって、この上ない幸運だ。しかしながら、天皇は、いつまでも現状のまま在り続けることはできない。 天皇が統治者として在位し続け、公に面目を失うことなく、自らの意思で物事を処していく限り、日本国民は天皇の求めることならなんでも喜んで、すなわち心からの義務感をもってするだろう。このような構造の中で、天皇が新しい伝統に踏み出す時になすべきことは、はっきりしているとぼくには思えた。八年間、国民はなんのために死んでいくのかわからなかったから、彼のために命を捧げてきたのだ。その国民を必要とするこの重大な時に、天皇に残された最後の道は、「民衆の天皇」となる以外にはなく、そのために全力を尽くすしかない。 (中略) 天皇は現在の日本において迅速かつ効果的に動くことのできる唯一の力と言える。したがって、それ自体の価値で考えるにせよ、占領政策という観点から考えるにせよ、今こそ天皇の力を利用すべき時なのだ。

(そしてプリンスタカマツに面会し、次のように話した。)

 天皇にできることは二つある。一つは、今すぐにでも、六週間ほどかけて日本全国を隈なく回り、物資と食料の生産を国民に改めて強調することだ。また、東京にいるときも毎週前触れなしに郊外まで出かけて、車から降りて国民に直接、生産事情を尋ねるべきだ。 でも、もっと大事なのは、やはり全国を回ることだ。もし、それが短縮されて、急行列車に乗って大都市だけを十日間で回る旅なら、いっそやらない方がマシだ。たとえ長くて飽き飽きするような旅だとしても、全国を回ることをぼくは強く主張した。天皇の気の向くまま、何かに興味を持ったら予告なくどこでも列車を停めるのだ。列車から降りて、道端の農民と言葉を交わしたり、町中の労働者とも話をすべきだ。いったん旅に出たら、たまには任意にコースを変更して、発電所を訪ねたり、石狩や九州の操業中の炭鉱に行ってみたり、学校や病院、とにかくあらゆる場所に行けばいいんだ。(松宮史朗訳)

 

 高松宮はケーリの話に非常に関心を持ち、都合6回の面会を行った。 高松宮への働きかけが昭和天皇にどのように伝わり、影響を与えたのかはよくわからないが、1946年からの全国巡幸はケーリの趣旨に沿ったもののように思われるのである。

1947年8月 常磐炭鉱 地下第4炭層に降りる

1948年5月 長崎にて「長崎の鐘」の永井隆博士を見舞う

オーティス・ケーリ のちに同志社大学教授となった