雪夜庵閑話

俗世を離れ、隠遁生活を始めた団塊世代です

あけましておめでとうございます

 新しい年を迎え、雪夜庵閑話を今年もよろしくお願い申し上げます。

 身体の具合は相変わらずで、少しづつ楽にはなって来てはいるものの、夜になると37度台の熱が出て来て、蟄居閉門の座敷牢生活は続いている。 夜、寝ていると、鼻の奥と喉にウイルスがビッチリと張り付いている感じで、鼻が詰まって息が苦しく、鼻の奥の脳の中もウイルスにやられているのか、頭痛がひどいのである。

 今朝は10日ぶりくらいに外に出て歩いて信濃川の土手まで行ってみた。

朝7時 気温▲0.7度 積雪はゼロになった

 昨夕は能登地震で、この辺も震度6弱で大きな揺れが長く続き、積み上げていたものが崩れたりしたが、瓦が落ちるようなことはなかった。

 今朝は、餅を1個入れたお雑煮を食べてようやく少しずつではあるが生活は元に戻りつつある。

我が家のお雑煮 餅1個入り

 

蟄居閉門

 今週月曜日に発熱し、いまだ寝たり起きたりの生活が続いている。 全身の倦怠感と、咳、鼻水、のどの痛みがひどく、コロナかインフルに違いないと、医者で検査をしてもらったが、どちらも陰性だという。 致し方なく、座敷牢に自らを幽閉し、薬を飲んでいるが、一時は39度まで上がっていた体温は、このところようやく、日中は36度台、夕方からは37度ちょっとまで下がって来た。

 恒例の年始客には新年のあいさつはご遠慮願って、新しい年は蟄居閉門で迎える予定である。

 皆様もご健康第一で良いいお年をお迎えください。

雑司が谷旧宣教師館(マッケーレブ邸)

 先週上京した時に、以前このブログにも書いた雑司が谷の洋館を訪ねてみた。

 地下鉄の東池袋で降り、半世紀前と同じように雑司が谷墓地を通り抜け、グーグルマップの道案内を頼りに細い路地を行くと、その洋館が現れた。 

 周りには最近建て替えたと思しきモダンな住宅も見られる中で、ここだけは時間が止まったかのように、薄いピンクの下見板張りに緑の窓枠の洋館が、半世紀前にヴィバルディを聴いた日のままに残っていた。

 資料によればこの建物は、明治40年(1907)にアメリカ人宣教師ジョン・ムーディー・マッケーレブがその居宅として建設し、彼が開戦により昭和16年(1941)に帰国した後、昭和19年(1944)にスタックス工業の林尚武氏が社屋として取得し、同社の移転に伴い昭和57年(1982)に豊島区の所有となり、現在は都指定有形文化財雑司が谷旧宣教師館(マッケーレブ邸)」として一般公開されている。

 門を入ると、敷地は記憶にあるよりも広く、玄関のドアは開け放たれ部屋の明かりもついているが管理人はいないようで、勝手に中に入る。 

 私がかつてスタックスのコンデンサー型スピーカーでヴィバルディを聴いた部屋は、玄関右手の張り出し窓のある部屋に間違いなかった。 残念なことに、この部屋は部屋の中央に展示資料貼付け用の衝立が立てられて仕切られ、往時を偲ぶものは張り出し窓とその下の作り付けのベンチくらいで、そこに座ってみてもヴィバルディが蘇って来ることはなかった。

ヴィバルディの部屋の奥の食堂

食堂をめぐる広縁

 この建物は、1,2階とも同じような簡素な間取りで、1階は居間(ヴィバルディの部屋)と食堂、キッチンそれに協会事務室、2階はメッケーレブ氏の書斎、寝室、浴室となっている。

1階平面図

2階平面図

玄関内部

ヴィバルディの部屋から玄関へのドア

 百年以上経過した木造建築にしては荒れた感じはなく、補修が行き届き大事に管理されてきたことが伺われた。 しかし、如何せん家具もなく、生活のにおいのしない建物からは、あの半世紀前の、ヴィバルディの鳴り響いていた、夢のような洋館の午後の明るい光に満ちた時間を思い起こさせるものは既に消え去っていた。

setuyaan.hatenablog.com

 

ゼミの忘年会

 先週の土曜日に東京で大学時代のゼミの忘年会が開かれ出席してきた。 例年、先生の自宅に昔のゼミ生が5,6人集まり、まじめに読書会をやった後、先生の奥様の料理が出されて忘年会になる。 今年はコロナで4年ぶりの開催となったが、その間に亡くなったメンバーや体の不調で欠席のメンバーもいて、時の流れを感じさせる。

 何しろ大学時代と言っても50年以上昔のことなので、先生もゼミ生も老人ばかりであるが、この時ばかりは昔に帰って全員意気軒高、昔と今がごちゃ混ぜになった話で盛り上がるのである。

 帰りに乗ったラッシュアワーの山手線は昔のままにギュー詰めで、変わらぬ東京が遺っていることを肌で感じることができた。

ミライエとミライニ

 先日、雨風の強い週末に山形県瀬見温泉に行って来た。 「観松館」という旅館に泊まり、翌日は日本海側の酒田に出て、ランチに当地で有名な「ル・ポットフー」を利用したのであるが、この店の入っているのが「ミライニ」という酒田駅前のピカピカのガラス張りの建物で、1,2階に広々とした市立図書館が入っていた。

 我が長岡にも駅前通りに「ミライエ」という市立図書館が入ったピカピカの建物が今年オープンしたばかりで、こういうコンセプトの市街地再開発が今どきの流行なのかと思った次第である。

 どちらの図書館も中心市街地に人を呼び寄せる目玉として作られたことは明らかで、カラフルなソファーなどが置かれ、ヒマ人がゆったりと時間をつぶせるような雰囲気作りがされている。

 ただ、どちらの街もピカピカの建物から一歩外に出ると、人けのない寒々としたとした通りが続いていることも共通していた。

 酒田からの帰り道は、暴風雨の中をひたすら前を行く車のテールランプに付いて帰って来た。

酒田「ミライニ」の図書館(グーグルマップの画像から)

長岡「ミライエ」の図書館(新潟日報の記事から)

 

「ベルギーと日本」展と料亭「若松」のこと

 先日、秋晴れの午後、新潟県立近代美術館(長岡)で開催中の「ベルギーと日本」展に行って来た。 明治期に美大卒業後、ベルギーに留学した洋画家の太田喜二郎と児島虎次郎、彫刻家の武石弘三郎を軸として、その当時活動した日本、ベルギーの芸術家の作品を集めた展示会である。

 3人とも初めて接する名前であったが、洋画家の二人はいずれも明るい木漏れ日の光を感じさせる画風が印象的であった。 新潟県出身の彫刻家・武石弘三郎は繊細な人物像が並ぶ中に、「裸婦浮彫」と題されたレリーフがあり、何気なくその説明を読んだ時、一瞬にして半世紀近く昔の思い出が蘇ってきた。

武石弘三郎「裸婦浮彫」 1939(昭和14)年 新潟県美HPより

 説明文は、次のような趣旨のことが書かれてあった。 

三条市にあった「若松」という料亭の応接室の暖炉の上に絵画のように飾られていた作品である。この料亭の若主人の結婚を記念して製作されたものと思われる。

 懐かしかった。「この料亭の若主人」石村喜一郎氏とは私が若かりし頃に仕事上の付き合いで3日に1度は顔を合わせており、石村氏の茶飲み話を聞きながら世間勉強をしていたものであった。 すでにその頃、石村氏はいいお歳であったが、温厚な坊ちゃん育ちで写真が趣味であったことから、料亭とは別の場所で立派な洋風の写真館を持っておられた。 若松にも何回か職場の連中と上がって、庭を望む閑静な座敷で場違いな宴会を開いたこともあり、その折にこの洋間の応接室も見せてもらった記憶がある。 レリーフのことは記憶に残っていないが、竹中工務店の施工によるという薄暗いクラシックな応接室は、和風の料亭の中でここだけ異次元の世界に入ったような気がした。

取り壊される前の料亭「若松」 2014年6月撮影

 武石弘三郎を介して、若松の思い出が蘇ったのを契機に、若松の建物について調べてみた。 

三条市中心市街地の町と町家の調査研究 その8 旧料亭若松について」(2011 平山、西澤)によれば、若松の主屋は1930(昭和5)年頃に建築された。 その後、別棟(上の写真に見える道路に面した部分)が増築され、洋室(応接室)は、1939(昭和14)年頃、竹中工務店により改築された。 さらに戦後に大広間などが増築されている。

若松建物1階平面図(三条市中心市街地の町と町家の調査研究から)

 我々が訳もわからずに飲んでいたのは、「1階12畳」という庭に向けて縁側を回らせた部屋で、その隣に件の「応接室」があったのである。なおこの部屋は、廊下の板戸を閉めると、そこに部屋があることがわからない仕組みの「隠し部屋」で、政治家の密談に使われたという。

 ご多分に漏れず、料亭政治や花柳界の衰退により、若松も石村喜一郎氏の代をもって廃業し、その後長い間建物は風雪にさらされながらも名残をとどめていたが、少しずつ取り壊され、今年に入って通りかかった時にはすべて跡形もなく、更地となっていた。

 武石弘三郎のレリーフ「裸婦浮彫」は、平成24年度に新潟県立近代美術館に所有者から寄贈されたものという。 (「新収蔵作品 武石弘三郎「裸婦浮彫」、北村四海「女性立像」について」 新潟県近代美術館学芸員 伊澤朋美 2014) 

 石村夫妻の結婚を祝して武石によって作成された裸体の女性が微笑むレリーフが、若松なき今、華やかだった時代を偲ばせる「よすが」として私の前に現れたことは、50年前の石村氏の面影と共に、自分のまだ若く未熟だった時代を思い出させてくれたのである。