50年以上昔の呑気な学生時代のこと。
練馬の親戚の部屋に籠ってオーディオ雑誌を読みふけり、理想のオーディオ装置を空想していた。 空想はメジャーな製品から次第にマイナーなものへと迷い込んで行き、行きついたのは、当時スタックス工業という会社が製造していた「イヤースピーカー」なる、振動膜に電圧をかけることで音を出す「コンデンサー型」という仕組みのヘッドフォンで、圧迫感のない異次元の繊細な音が特徴とされていた。
聴いたこともないこの「コンデンサー型イヤースピーカー」に魅せられて、当時、雑司が谷にあったスタックス工業を訪ねたのであった。
池袋から都電で一つ目か二つ目の停留所で降り、雑司が谷墓地を横切ったあたりにその会社、いや会社という雰囲気とは正反対の古びた洋館があった。
いささか気後れしながら案内を乞うと、白髪でジャケットをきちんと着込んだ老紳士が現れ、玄関ホールの脇の客間と思しき午後の光が明るい部屋に招じ入れられた。
そこでは、畳を立てたような形のコンデンサー型のスピーカーからヴィバルディの四季(多分、イ・ムジチの)が驚くような明晰さで鳴り響いており、この古い洋館の中が周りの東京の街とは別世界の、どこかいにしえの西欧の都会のサロンに迷い込んだような気持になった。
あれから半世紀以上の時が流れた。
あの時に買ったイヤースピーカーと専用アンプ、それにコンデンサー型のピックアップは納戸のどこかに眠っている。
スタックス工業はその後倒産した。
あの雑司が谷の夢のような古い洋館は、バブルの波の中で消えていったことだろう。
あの日の午後のヴィバルディが流れていた洋館での時間は、夢であったように思われる。
先日、ふと思い立って、夢の後を追ってみようとスタックスの今を検索してみた。
スタックスはしぶとく残っていた。 倒産後、技術者の残党が独自の製品を作り続けていたが、中国企業に買収され、今は高級品に絞ってイヤースピーカーを引き続き製造しているという。
会社のHPに「創業80周年の歩み」という、多分古参の社員が作ったものであろう沿革が記されており、それを見て初めてあの雑司が谷の洋館の由来を知ることができた。
それによれば、あの洋館はもともとアメリカ人の宣教師が明治40年(1907)に建てた宣教師館で、戦争が始まった昭和16年(1941)に宣教師が帰国した後、スタックス工業の創業者である林尚武という人が本社として使っていたが、1982年にスタックス工業が埼玉県三芳町に移転するに伴い、東京都指定有形文化財に指定され豊島区の所有となったとある。
雑司が谷の洋館は残っていたのである。
豊島区のHPを見ると、J.M.マッケーレブというアメリカ生まれの宣教師夫妻が伝道の拠点として34年間にわたりこの家で暮らした。 建物は19世紀アメリカの郊外住宅の特色を持った質素なつくりで、一般に公開しているとある。
雑司が谷旧宣教師館の概要・沿革|豊島区公式ホームページ (toshima.lg.jp)
この写真の玄関脇の張り出し窓のある部屋がかつてヴィバルディを聞いた「夢の中の部屋」であろう。 それにしても、あの東京のバブルの時代を超えてよくぞ残っていてくれた。 時空を超えた夢の中の建物である。 いつか再訪してみたい。