雪夜庵閑話

俗世を離れ、隠遁生活を始めた団塊世代です

寒い家考

 立春も過ぎたが家の中は相変わらず寒い。 毎日首をすくめて炬燵に潜っている。

 しかし昔の家はもっと寒かったはず。 昔の人はどうやって寒さを耐えていたのか?

昭和38年(1963)1月 三八豪雪時の長岡
屋根から降ろした雪で家の中は真っ暗 雪室に住んでいるようだ

新潟市の毎年1月の平均気温推移 明治15年(1882)~令和6年(2024)

 近年は地球温暖化により暖冬傾向が進み、昔に比べ積雪量も少なくなって来ているのが実感である。 屋根の雪下ろしをすることも稀になった。

 気象庁のデータベースから古い記録の残る新潟市の明治期から142年間の「1月の平均気温」をグラフにしてみると、明らかに冬の気温は上昇傾向にある。 

 ちなみに、明治15年(1882)から24年(1891)までの10年間の1月の平均値は1.3度、平成27年(2015)から令和6年1月(2024)までの10年間の平均値は3.1度である。

 昔の冬は今よりもずっと寒くて雪も多く、厳しい気象条件にあったことがわかる。

 一方で住まいの構造はといえば、雪国といえども基本的には「木と紙の家」で、断熱などという思想はなく、吹雪の夜には窓の隙間から寝ている顔の上に細かい雪が降りかかるような具合であった。

 室内の暖房もせいぜいが火鉢に炬燵程度で、長岡市内にガスが配管されてストーブが使われるようになったのは昭和34年(1959)からである。

 家の外も中も寒い冬を、昔の人は我慢強さで耐えていたのだろうか? それもあっただろうが、「身体の寒さへの慣れ」(寒冷順化)ということが大きいのではないかと思う。 ずっと寒い環境の中にいることによって身体が寒さに順応するのである。

 昔の家は部屋の中も廊下も台所も、家の中どこへ行っても同じくらい寒かったから、身体が自然と寒さに慣れたのである。

 一方、昔の家に比べ室内の暖房設備が整った家に住む今の世の人間は、家の中でも暖かい部屋と寒い廊下などとの温度差が大きく、部屋から廊下に出るたびに寒さに震えるようなことを繰り返していて、身体に受けるストレスが大きく、寒さに慣れるということがないから寒さに弱いのだと思う。 

 もっとも、これは我が家を例にした「昭和の家」の話であって、平成や令和の家であれば家の中の温度差もなく、こんな寒さの悩みも昔話であろうが。

グッドデザイン

VAIO LB50B 

キーボードを閉じた状態

 ふと思いついて、昔のパソコンの中から玉手箱のように古い写真でも出てこないか、と二代前に使っていたVAIOを引っ張り出してきて電源を入れてみた。 このパソコンは平成18年(2006)に買ったもので、OSはWindows XPである。 Windowsは立ち上がったようなのであるが、如何せん画面が真っ暗、目を凝らすとおぼろにアイコンのようなものが見える程度で、とても動かせる状態にはなく、ギブアップ。

 それは兎も角、昔から思っていたが、このパソコンはデスクに置いて使うのに場所を取らず、使わないときはキーボードを跳ね上げておけば、デスクも広々と使うことができ、誠にグッドデザインだと思う。(ノートパソコンだと、使っていない時でもデスクの一等地を占有して不快) 昔のSONYは製品のコンセプトといい、デザインといい卓越していたが、今ではすっかり凡庸になってしまったのは残念である。

長い間お疲れさまでした

 先月の21日に、50年近く頭を刈ってもらいに通い続けた三条市の佐藤床屋さんが閉店した。 80歳代半ばではあったが、腕も確かで、まだまだ頑張ると言っていたのだが、奥さんの病気で介護が必要となり、急遽決断したという。

 佐藤床屋さんは、母親が昭和4年に開業(父親は鍛冶職人)し、自分は昭和35年3月31日に跡を継いで63年。延べ40万人近くのお客の頭を刈ったことになるという。

 私も、昔三条市内に勤務していた縁で、思えば昭和50年から令和5年まで48年間、年に10回として約480回も通ったことになる。 こうなると、定期的な「佐藤床屋通い」が私の日常に組み込まれて、人生の大事な一コマとなっていたのである。

 佐藤さんは三条に多い典型的な職人気質の人で、ハサミや剃刀といった道具は気に入ったものを何十年も手入れを怠らずに使い込み、仕事場は清潔でいつも季節の花を生け、仕事には若いころから老年になるまで手を抜かず、髪を刈る手の動きも判で押したように変わらず正確でブレがなかった。 穏やかな性格で、いつも散髪が終わった後はコーヒーとケーキが出て談笑するのが楽しみであった。

 今でも耳元で規則的でスピード感あるハサミのカシャカシャと鳴る音が聞こえてくるようだ。 佐藤さん長い間お疲れさまでした。 ありがとうございました。

佐藤床屋さん夫妻(2017年撮影)

 

大寒

 1月も下旬、大寒に入ったというのに、このところ暖かい日が続いている。 今日は現在の外気温が10.6度もあり、防寒コートで歩くと汗ばむくらい。

 雪もすっかり解けて、普段なら雪で歩けないいつもの土手の散歩道を歩くと春が来たような気分になる。

 久しぶりに駐車場でジェームスの水槽の掃除もしてやり、本人もさっぱりした様子。

雪がすっかり消えた川沿いの道

 でも明日からは冬型が復活してまた雪の予報である。

寒い家

 昨年末来の長引いた風邪(?)もようやく去り、しつこい副鼻腔炎だけが居座っている。 今までこんなにいつまでも身体がすっきりしないことはなかったのだが、後期高齢者とはこういうものかと自分で納得している。

 身体の具合の悪い冬には古い我家の寒さがひとしお身に染みる。何しろ父の代に建てた古い建物は終戦直後、新し建物でも昭和48年築であるから、耐震はもちろん、断熱も考えていない。 普段いる部屋の中はガス暖房やエアコンでやり無理暖房しているが(それでも隙間だらけだから室温は20度ちょっとしか上がらない)、一歩廊下に出れば外と同じ寒さである。この冬は我慢ができず首にネックウオーマーを巻き、セーターの上に綿入半纏を羽織って着ぶくれのいで立ちである。 大昔はどこの家でも夜寝る時には隙間風よけに枕屏風を立て、それもない家では頭に頬かぶりをしていたものだという話を聞いたことがあるが、似たようなものだ。

 そもそも兼好法師の昔から、日本の家は「夏を旨とすべし」とされ、冬の防寒よりも夏の涼しさを最優先してきた訳で、多分、その思想は日本の南北を問わず、冷暖房器具の発達する昭和40年代頃までは生きていたのではなかろうか?

 ちょうど今読んでいる司馬遼太郎の「街道をゆく」の中に、北海道の旅館の夜の寒さに閉口して、

 この宿はこの当時、湯川でも代表的な老舗で、軽快な京風の数寄屋建築が自慢だった。数寄屋というのは高温多湿の夏をしのぐためのもので、冬向きの建築ではない。和人が「ワタリ」として多数道南に移住するようになった鎌倉・室町以来、一度も北方の冬をしのげるような建物や装置を考え出したことがなく、本土の南方建築で間に合わせてきたというのは、驚嘆すべき文化といっていい。(中略)

 かつての奥羽の人々や道南の和人たちが、北方のオンドルをなぜとり入れなかったか、ふしぎでならない。(中略)オンドルの床ができると、家屋の構造が変わらざるをえない。外壁も、奥羽にごく最近まで圧倒的に多かった板壁でなく中国・朝鮮式の塗り壁にしなければならず、この点、京を中心に発達した建築様式とはずいぶん違ったものになってしまう。 それでは他の日本と区別されてしまう、という意識が、この式を採用することをはばんだのではないか。 ー奥羽や道南では、日本の他の文化と、家屋そのものからして違っている。というふうには見られたくないという意識ー逆に言えば中央と均一化したがる意識ーがこれをはばんできたのではないか。日本には、本格的な意味で独自な地方文化が育ったためしがないということは、この一事でもわかるような気がする。(以下略) (街道をゆく15 「北海道の諸道」)

 確かに、どんな北国に行っても、和風の立派な建物は京都の名建築に倣った、書院造や数寄屋造であることがほとんどで、庭も建物に合わせて作り、豪雪に耐えるために大変な手間をかけて冬囲いをしても、この様式を守っているのは涙ぐましくさえ思う。

 しかしながら北国の人間は、私を含め、冬の間は家の寒さに閉口しながらも、雪が解け、庭の梅や桜が咲き出し、春風が座敷を通り抜けていく頃になると、すっかり冬の寒かった日々を忘れ去ってしまうのである。

冬の楽しみ 隙間風の入る部屋で餅を焼く

 

緊急地震速報

 能登半島地震の被害の大きさと深刻さが日を追うごとに報道されてくる。 いまだに倒壊した建物中に取り残されている人がいるなど、これまでの大地震の対応に比べて救助活動がずいぶん遅いと感じる。

 今朝10時頃、いまだに詰まる鼻と重い頭を抱え、炬燵にあたり、火鉢を抱えてNHKの「音楽の泉」を聞き逃し配信で聴いていた。 曲はリヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士組曲で、優雅なワルツに身を委ねていると、突然あの緊急地震速報の不安を煽り立てる半音階の上昇和音が流れ、「地震です。震源は石川県能登地方。すぐに身を守る行動を取ってください。」と言う。 しばらく身構えていたが、何事も起こらず静穏で、しかしラジオの方は続けて震度は5強であると切羽詰まったように言う。 新潟県には影響はなかったかと思っていると、そのうちに「皆さん、まだお休みの方も多かったと思います。念のためいつでも避難できる仕度を整えて下さい。」などと言うのでここでようやく「おや?」と思い、そう言えばこれは聞き逃し配信で、オリジナル番組は6日(土)の午前5時からであったことに思いが及んだ。 地震の記録を調べると、確かに1月6日の5:26頃、能登地方で震度5強の地震があったことがわかった。

 イヤハヤそれにしてもNHKも人を混乱させるものだ。聞き逃し配信に緊急地震速報まで入れて配信するとは!

 ちなみに調べてみると、この気持ちの悪い緊急地震速報のマイナーな調べはゴジラで有名な伊福部昭の甥である伊福部達という人の作曲の由。 確かにゴジラが出て来ても不思議はないような曲ではあります。

 また、先ほど改めて件の「音楽の泉」を聞き逃しで聴いてみたところ、緊急地震速報はカットされていた。 人騒がせめ!