雪夜庵閑話

俗世を離れ、隠遁生活を始めた団塊世代です

掘り出し物(2)

 「仏道具箱」の中には雑多な小物の仏具が和紙などに包まれて入っていたが、古新聞に包まれていたものもあり、茶色に変色した古新聞を開いてみると、何と終戦の日付である昭和20年8月15日発行の日本産業経済新聞(日本経済新聞の前身)であった。

昭和20年8月15日付日本産業経済新聞

 残念ながら第1面、第2面の一部分だけであるが、第1面は戦況についての記事がほとんどで、「新爆弾」(原爆)の被害についての記事が目を引く。 第2面は「食料・農林・水産」面で、「山菜・野草を食べよう」という切実な記事もある。今日の新聞に比べると活字が非常に小さく、眼鏡をはずして顔にくっつけないと読めないくらいだ。

 第1面の見出しを書き出してみると、

・牡丹江佳木斯で 激戦を展開中 一部の敵、羅津に上陸ソ連が参戦し満州に侵攻)

・安別・恵須取に蘇軍上陸 古屯北方地区進出を許さず樺太ソ連軍侵攻)

樺太国境エストリにも上陸(同上)

・沖縄の戦爆七十機九州へ(米軍爆撃機が来襲)

・十二日は三百余(同上)

・敵機来襲状況

・大型水上機母艦撃沈 沖縄南東 潜水部隊の殊勲 一潜艦で六隻を屠る

・敵戦艦十三隻を轟撃沈 潜水部隊総合戦果

・中條湾在泊の艦艇を急襲 二機空母に突入

特攻機の攻撃で沈没

・空母・巡艦二隻を大破炎上 鹿島灘東方 敵機動部隊を捕捉

・来攻の空母十数隻 特攻隊 悪天冒し猛攻

 降伏直前で日本軍はボロボロの状態で、南からはアメリカ軍による連日の空襲(我が長岡も8月1日に焼け野原と化した)、北からはソビエト軍による侵攻と断末魔の日々であるが、新聞ではなおも大本営発表風の勇ましい見出しが躍っているのも、いま思えば痛ましい。 

 注目すべきは、広島・長崎の「新爆弾」による被害についての情報記事で、一部抜き書きすると、

廣島、長崎を襲った米機の新爆弾に対して巷間怪談じみた噂が伝わり、滑稽な恐怖を持っている。これに関しては目下軍官民各方面の権威が現場に急行調査中であるがその進行に伴い新爆弾は決して巷間伝えられるような威力を持つものではなく適切な手段を取りさえすればその災厄を免れ得ることが明らかになった。

・爆発と同時に閃光と高熱を発するが、熱線は光線と、爆風は音の速度と同じで爆発と同時に天地晦冥となり雲が湧き俄雨が降ることもあるがこれは心配ない被害の程度である。爆風圧は垂直的に強大で熱線は凡そ8粁(㎞)まで及ぶ、共に永続的でなく且閃光と熱線との間に距りがあり、また浸透性に乏しく人の後にいるものや腰板等の背後にいるものまでは及ばない。

・人の被害

 距離に正比例するが、爆発点直下でも鉄筋コンクリートや半地下壕は大丈夫である。 広島や長崎では女子の被害が比較的多かったが、これは薄着をしている結果であり白服は熱線に有効で白服に腕章をつけたものは腕章の文字だけが黒く焦げていた。

 広島・長崎の原爆被災地の状況が如何なるものであったか、戦後の日本国民で知らぬ者はいないが、この記事は明らかに被害を矮小化し、新爆弾恐れるに足らんとの論調である。しかしこの時点ですでに新爆弾=原子爆弾であることは政・軍トップは把握していた。 8月6日に広島に投下された2日後の8日に、原爆開発を研究していた仁科研の仁科芳雄博士が広島に飛んで間違いなく原爆であることを確認していたのである。 仁科博士の報告の段階で終戦を決める御前会議の開催が決定され、ようやく終戦へ動き始めることになる。

床の間に金木犀と掘り出し物を並べる